東日本大震災から10年です。
2011年3月11日午後2時46分
穏やかな日差しに照らされる、少し春の陽気も感じる、なんともない日だったと記憶しています。
突然大きな縦揺れ、そして長い長い横揺れが続きました。
当時私は中学生。午後の授業中でした。
経験したこともない大きな地震。長い揺れ。ある人は悲鳴を、ある人は動揺を、ある人は落ち着かせようと声かけを。私はただ机の下に身を隠すのみ。
授業は中断、即時帰宅になりました。すぐに帰ることができただけ良かったですが、家でつけたテレビ映像は衝撃でした。
それは気仙沼だったと思います。
津波が押し寄せ、今まさに街中に衝突する瞬間でした。
映画か合成かと思いました。しかし、そこはたしかに人が住む街。本物の津波、災害でした。
何かとんでもないことが起こっている。それだけは感じました。
私の住む場所はそこまでの被害はありませんでした。後日校舎にヒビが入っていることを知り、改めてすごい地震だったことを知りましたが、生徒などに被害はありませんでした。
それでもニュースから入ってくる情報は未曾有の被害ばかり。
地震による倒壊、津波に飲み込まれた人、原発の爆発…。跡形もなくなった東北の現場が映し出され、これが同じ日本なのかと疑い、それと同時に普通に日常を過ごしている自分を、少し安堵し何か申し訳なく、しかし何もできず、複雑な感情になりました。
私のできたことは、少ない小遣いから少しのお金をお店の募金箱に入れるくらい。
何かしたいけどどこか他人事で、できることも少なく、やるせない気持ちでした。
2019年。大学生になり、仙台へ行きました。
おいしい飲食店が並び、道路も整備され、活気がありました。落ち着いた雰囲気で、何故かゆっくり時間が流れているような感じがして、とても好きな街になりました。
しかし、海の方へ近づけば近づくほど様子が変わっていきます。
建物はなくなり、アスファルトは次第に砂利になり、緑色の自然も無くなっていく。
一面白い砂の真っ平らな土地が広がり、一軒ポツンと銭湯兼宿泊施設が建つだけ。
銭湯はとても気持ちよかったですが、露天風呂から見下ろす情景はキレイでしたが、どこか恐怖感もありました。
震災前までは一面森林が広がる土地だったそうです。
仙台の街並み、森林、海岸線そして海が一望できる露天風呂だったようです。
今は街並みこそあるものの、その隣は真っ平らな砂利の土地、そして高さを上げた防波堤と、海。
素直に景色を楽しめない自分がいました。
それ以降仙台に行っていませんが、今はどうなっているのか、とても気になります。仙台はとても好きになりましたし、また行きたいですが、いまは感染症という新手の難題があります。
私は震災からの復興がまだ道半ばなのだと感じました。
そこに感染症です。
当時食べたあの牛タン屋さんは大丈夫なのか、あの銭湯は営業が続いているのか。
私は社会人になりました。あれから10年。しかし相変わらず何もできない私は、あれからたいして変わっていないではないか。この10年何をしていたのか。成長の無さにやるせない気持ちになります。
3.11、14時46分に黙祷をすること。3.11とYahooで検索すること。募金箱にお金を入れること。
やることがこの10年ほとんど変わっていないではないか。
こんな気持ちになってしまいます。
自分と同年代の人の中には、すでに何かアクションを起こして動いている人がたくさんいます。
とても尊敬し、同時に嫉妬します。
その行動力、決断力、創造性、情熱。どれも私が欲しかったもの、やりたかったことです。
それでも今できることをしようと思います。
私はこれから教員になります。
今の小学生にはあの震災を知らない子たちがいます。震災当時は幼く記憶にない子もいます。震災後に生まれた子もいます。
震災を風化させない為に、そして今後の為に、私でも伝えることができるかもしれない。何かしらできることはあるのではないかと考えています。
そして被災地にいつかは貢献を。またその時の為に、必要とされる時に力を出せるように。
また東北に足を運ぼうと思います。
今度は、笑顔で景色を眺めたいですし。
かんばろう、ニッポン。
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